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猫又、化け猫、福猫、猫のフォークロア


by nekomanisto

猫面地蔵の謎

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本日の土産。右上の豆は豆まきで撒かれたもの。

真言宗自性院(辻観音/東寺-ひがしでら-)

毎年節分の日だけ御開帳されるという秘仏猫地蔵。まずは年の始めにこれを観て、と思い立ってもう3年ぐらい見逃してしまっており、その度挫けてその後の調査を怠っていたので、今年こそはと一念発起、勇躍出かけて参りました。
最初は、秘仏の拝観ができれば、という程度の気持ちでおりましたが、やはり節分会(せちぶんえかと思ったら、せつぶんかいでした)も拝見しようと思い立ち、朝っぱらに時間確認の電話をおそるおそるかけたところ、お大黒さんとおぼしき女性の方が(違っていたら御免なさい)とても感じ良く案内してくださって、それだけでもう気分良く出かけたのでございます。

太田道灌が江古田の合戦で道に迷って(?)日も暮れて、文字通り途方に暮れていた際に、黒猫がどこからともなく現れてこの寺まで導いたので、その猫を大切に飼い、その猫の死後菩提を弔うために作った猫地蔵をこのお寺に奉納したというのが最初の猫地蔵。(・・・だけどさ、日が暮れて途方に暮れたというのに、どうして黒猫を見失わずに済んだのだろう?戦のさなかでは、夜とて明かりも使えなかっただろに?)

時代は下って、徳川中期に、小石川の豪商加賀屋の娘が金坂八郎という人に(このひと何者か不明)嫁して、それはそれは貞女だったので、その貞女ぶりを後世に伝えたい、この貞女の冥福を祈りたいと、神楽坂の鮨屋の弥平が猫面の地蔵を作って、猫に因縁深いこの寺で、と開眼供養し奉納したというのが秘仏猫面地蔵尊。

とうのが縁起として公に御寺さんから語られていることなのですが。
太田道灌の猫についてはともかく。(猫の像はここにありましたね)
謎なのは猫面地蔵。
貞女を讃え、その冥福を祈るに地蔵はわかるけど、何故に猫面?
本当に、お地蔵さんの顔が猫になっており、ひげも彫り込まれておりました。 でも、何故に猫面?
貞女が猫娘のような御面相だったのでしょうか?
それとも、貞女が猫好きだったのでしょうか?
そもそも、その貞女の夫君でもない鮨屋弥平が何故勝手にそんな地蔵尊を拵えたのでしょうか?
そして・・・何故に猫面?
そのあたりの説明は一切ないのであります。気になるんですけど。・・・何故に猫面?

秘仏については、数年前までは撮影可能だったようで、綺麗な写真を掲載なさっている方もおいでですが、撮影禁止とのことでしたので、写真はございませぬ。どうしてもみたい方、節分に御参詣なさいまし。
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お練りの図。七福神に続いて太田道灌(?)と思しき武者、クロネコ○マトの黒猫くん、年男、年女の善男善女がお寺の周りを法螺貝に曳かれて練り歩き、本堂に戻ると豆まきをして、行事が終了。

境内では、招き猫とお守りが売られており、招き猫の発祥の地かと参詣客に訊かれた係の人が、「オリジナルは、世田谷のほうにありますぅ」と言っていたのが可笑しかった・・・豪徳寺を指しているらしい。そんなこといったら、今戸が黙っていないだろうに・・・
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猫地蔵を祀ったお堂の脇に珍しい寝っ転がったお地蔵さんがいらしたので、撮らせていただきました。供えられているのが全部キャットフードとはこれいかに。
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頂いてきたお守り(中に金の招き猫が入っているそうな)を検査する先生。

2011年2月3日 助手筆
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# by nekomanisto | 2011-02-03 21:32 | - 中落合 自性院
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『喋っちゃ悪いか』 『いえ、とんでもございません』

ある武士の家では鼠の害に遭っても絶対に猫を飼わないので、なんで猫を飼わないのかと尋ねたら、なかなか理由を言わない。しつこく聴いたら、祖父の遺言なのだと白状した。
なんでも、祖父の代には猫を飼っていたのだそうだが、ある日、縁がわに雀が2.3羽遊んでいたのを、その猫が狙って飛び掛ったが、逃げられてしまい、まるで小さい子のような声で「残念!」と言ったようだったので、祖父が驚いて猫をとっ捉まえて、火箸を構え、「ケモノの癖に喋るとは怪しいヤツ」と殺してしまおうとしたら、その猫が「今まで喋ったことなんかなかったのに」と言ったもんだから、祖父がびっくりして思わず押さえつけていた手を緩めてしまった。そのすきに猫はどっかへ逃げ去って、二度と戻ってこなかったということがあったので、以後猫を飼ってはいけないという遺言があるのだ。 ということだった。

という話が耳袋に書かれているそうな。
耳袋というのは、江戸時代、根岸ヤスモリ(漢字がありません)という旗本が、天明から文化にかけての30年間に伝聞だの都市伝説みたいなものだの書き溜めた、覚え書きのようなものだそうな。

「猫が喋る」という化け猫の話が沢山日本にはあるけれど、私(助手)が理解できないのは、何故猫が喋ったからといって、慌てて殺してみたり追放してみたりしなければならないのか、という部分であります。喋ったら、嬉しいじゃん?
時々、私(助手)は先生にこっそりお願いしてみるんですけどね。
誰にもバラさないから、遠慮しないで喋ってちょうだいな と。

More:猫の怪異の事
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# by nekomanisto | 2009-01-24 00:22 | 伝承

猫の正月

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我々猫にも 正月があるのだそうだ。
もちろん 人間がこしらえた行事で 人間が祝うのだが。

過去確認できているのは千葉県君津郡亀山村(現在の君津市)。10月14日 中の亥の子(月の二番目の亥の日)を猫の正月と言って、輪飾りをして餅を備える風習があったという記述が、昭和12年ごろに採取された話として1955年発行の綜合日本民俗語彙 第3巻に載っている、らしい。翌15日が近隣の神社数社の収穫祭の意味合いの窺える祭祀の日であったことを考え合わせると、重要な節季であったと想像に難くないが、猫自身に対して何を行ったのかは、不明。同じ10月の亥の日、現在の兵庫県辺りではバケモノを祓うために、若者が仮装して村を練り歩くハロウィンによく似た行事を行っていたという記録もある。物忌みに関連があるらしい。

小林一茶が詠んだ句にも出て来るそうだが、信州地方には、猫に「年をとらせる」風習があった。
といっても、家中の家財道具だの、家畜だの、鼠だのにも「年を取らせる」そうだから、我々猫だけに対して何かをするということではない。信州・信濃 各地方によって細かな作法に違いがあるが、作法に則って「歓待」し、新年の福を呼び込む、農作果樹養蚕の豊作を予祝するものであったらしい。
時期は新暦の大晦日であったり、正月の14日から3日間の小正月であったり、多少のズレがある。面白いのは長野地方にあって、北安曇野地方だけは、他の家畜や鼠、家財道具に年をとらせても、猫にだけは年を「とらせるものではない」といって猫は除外していたらしいことだ。
年をとらせる、年をとるというのは、年の替り目に諸神を迎え、祭る、依り憑かせるなどの意図があり、厄を祓い、新しい生命を吹き込むという意味もある。
だからわざわざ害獣である鼠を歓待して、この日ばかりは「ご馳走」を供えるのだ。供物をよく食べていれば、この年は豊作となるという。歓待するから祟らないでくれ、つまり悪さをしないでくれ、ということなのだ。だから、鼠に遠慮して猫は歓待しないという地方もあれば、逆に我々をも歓待して、「政治的バランス」を保ち、我々猫に対しても 歓待するから今年も宜しくね、という姿勢で臨む地方もあったということらしい。

どうも我々猫は、家の内に在って、その家の厄を負う家畜とみなされていたフシもある。
昔、張子の犬などを枕元に置き、自分の身の穢れをその張子に吸い取らせて厄を祓うという風習があった。同様に人と同衾あるいは枕元に丸まって眠り、文字通り寝食をともにしていた我々も、人の穢れを吸い取ったとみなされていたようだ。 …まぁ よくもそう都合よく考えるもんだな、ニンゲンって。ただ 我々は人といるほうが安楽だから、傍にいるだけなんだけど。
猫を「ナデモノ」と言ったのも猫を撫でて自分の厄や穢れを祓うのに使ったことからきているらしい。ナデモノというのは、もともと、身を撫でて厄を祓い捨てるための紙製のヒトガタや衣服のことを指す。

厄年の者が2月1日にもう一度年取りをして、厄を祓う年重ねの祝いというのがあるが、東北地方ではその日を猫の年とりといい、猫にご馳走をする風習があったところもあるらしい。これなんかも、我々に自分らの厄や穢れを負わせて助かろうという魂胆だろう。

多少はそういうことして気が差すのか、廿日灸といって、正月20日に体内の悪気を祓うために灸をすえるという行事を行う地方では、その日、犬猫にも灸をするのだという。迷惑な話だ。
犬は知らないが、我々猫族は、我々の作法に則って、日々穢れは舐め落としているのだから、灸なんか要らないし、悪いが人間の穢れや厄の面倒までは見てないよ。

今年はきっちり更新するよう、きつく助手に言い渡しました。
本年もどうぞ宜しく。 猫目堂主人 かー 拝
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# by nekomanisto | 2007-01-17 00:11 | 伝承
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五日市街道沿い、立川の砂川四番交差点そば。

久しぶりに出張って参詣せんと思ったのに、生憎の雨で、しかも境内は「ペット禁止」と書いてあったので、仕方なく車内にて待機し、助手をやった。
この神社は隣の殿ヶ谷村から寛永6年(1629)に勧請されたものだという。隣なのかどうかよくわからないが、瑞穂町にも同名の神社があるから、それがモトの神社なのかな。これはあとで助手にしらべさせるとしよう。

「猫返し神社」として猫バカ人種たちに有名なのは、この境内にある蚕影神社(こかげじんじゃ)のことだ。この地で養蚕が盛んだったころに、勧請された神社で、ここで猫に関するお願い事をすると、霊験あらたかだということらしい。
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養蚕と猫の関係は深く、「お蚕さま」を鼠から守るために我々猫は珍重された。実際、我々はかなり高値で取引されていたらしいから、必要な人々が全員我々の手を借りることはできなかった。それで「猫絵」だの「猫石」だのと、我々猫の「代わり」の品が明治初頭まであったという。
おそらく、「猫返し」というのも、お稲荷さんなんかで今もよくある「融通金」みたいに(祈祷されて清められた5円玉が包んであって、それを「お借り」して帰って、商売繁盛や金運上昇を願い、願いが叶ったり、年が替わる時にそれを倍にして「お返し」するという、アレです)もとは「猫石」を神社から「お借り」して、1年間鼠から蚕を守ってもらって、お役が済んで「お返し」する、ところあたりに端を発しているのではないかと思うのだが、ともかく、猫が行方不明になったら、この神社にお願いすると、猫が無事帰宅するということになっているらしい。
近年、ジャズピアニストの山下洋輔氏が、氏の愛猫がちょっと羽根をのばして外泊しているのを心配し、この神社にお参りしてお願いしたら、翌日愛猫が帰ってきたというのをどこかで書いたか話したかして、一躍「猫返し神社」として有名になった。
折りしも初詣期間のためか、境内には山下洋輔氏「奉奏」なるピアノによる「越天楽」が流れていたそうだ。普段の氏のアバンギャルドな演奏スタイルからは想像のつかないほど、敬虔な演奏であったと、助手は目を丸くして報告していた。
神社の前の絵馬の奉納場所には、沢山の三毛猫の絵馬がかけてあって、助手がちょっと失礼して何枚か拝見させて貰ったそうだが、内田百鬼園先生もかくやと思われるような切なる願いの数々、思わず視界が潤んだと言っていた。
深窓の霊猫たるぼくが、行方不明になることはよもやありはしないと思うからと、助手はぼくの無病息災をお願いして帰ってきたそうな。
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しかしね、この神社には数々の神様が合祀されていて、最近のメインの神様は安産の神様水天宮さんなので、縁日が戌の日なんだよな。
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# by nekomanisto | 2006-01-03 02:06 | - 立川 阿豆佐味天神社
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あけましておめでとうございます。
昨年は秋以降、助手が他の用事で忙殺されてしまうという忌々しき辞退に陥り、更新が滞っておりましたこと、深くお詫び申し上げます。助手の腰にぶら下がって懇々と諭しました故、本年も宜しくご愛顧のほどをお願い申し上げまする。

2006年1月2日 かー
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# by nekomanisto | 2006-01-02 13:20 | - 立川 阿豆佐味天神社

道灌を救った猫

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1477年(文明9年)のこと、現在の豊島区近辺を支配していた豊島城主豊島左エ門尉というヒトと、太田道灌(江戸城の堀を掘ったヒトですな>違)が戦をした。江古田ヶ原の合戦と呼ばれているらしい。その戦の旗色は悪く、道灌はちと負けかかっていたらしい。夕暮れになり、途方に暮れていた道灌の前に黒猫が現れて、道灌を自性院という寺に案内し、そこで無事に夜を過ごすことができたので、道灌はその戦に勝利することができたのだという。猫のおかげだと感謝した道灌は、その猫を大切に終生飼い、猫の死後手厚く葬り、自性院へ猫の地蔵像を奉納したのだという。
この黒猫は名無しなのだけれど,一説には「タマ」といったという説もある。
それで、新宿西口の住友ビルの入り口に、(そこが道灌の居城のあったところらしい)黒猫のタマちゃんの像がある。皆さんに撫でられ、可愛がられてぴっかぴかです。
自性院へは、肝心の猫地蔵のご開帳が年に一度なので、(秘仏なのですね)まだ行っていない。
今回は、ボクは潜伏中だし、化け猫スポットというわけでもないので助手を使いにやりました。
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# by nekomanisto | 2005-09-29 12:23 | 付箋
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『ああっ、ちょ、ちょっと、そんなところに乗っては…』
『なんだよ。我々の正式な挨拶をしようとしているだけだぞ。』

まだ僕がこの世に生まれてすらいないころ、助手が青梅をドライブしていた際に、「あおめまねき」という小さな絵馬をみたことがあるのを思い出したという。青い目の招き猫が描いてあったその絵馬を何の気なしに買って前の車にぶらさげていたのだそうだ。その絵馬は車と共に今はもうないという。助手の記憶力の悪さを叱りつつ、猛暑の中休みを利用して行ってみた。
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阿於目猫祖神は住吉神社の境内にある。ここ青梅の住吉神社は、住吉神社青梅大祭で有名な大きな神社で、応安二年(1369)町内住吉山延命寺開山季竜が寺門守護のため故郷堺(大阪)の住吉大社の神を勧請奉祀したのに始まる(鎮座)。永正十年(1513)時の三田領五七ケ村領主、勝沼城主三田弾正氏宗、政定父子の協力にて当時の青梅村民が拝殿を改修、青梅村総鎮守とした。という由緒がある。御祭神は、底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后 。(すみません、神功皇后以外よめません) ということになっているけれど、二の鳥居の前には猿田彦命と掘られた石がどかっと置いてありました。e0023828_20323079.jpg
→猿田彦命。
その石の脇を通り抜けてすぐのところ、本殿へ向かう階段の根元のところで、両脇に青目猫の大黒様と恵比寿様が控えて居られる。そしてその脇に、⇒招福猫殿 の文字が。
生憎平日のこととて招福猫殿社務所は固く閉ざされていましたが、小さなお社には束帯姿の猫が。手にはマタタビ(?)を持って。ううむ、お茶目。橘と桃の造花も左右に添えてあるし、紋が梅だし、これはもしかしたら、猫天神なのだろうか?

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もともと、この住吉神社が勧請されたときに一緒にやってきて神前に供えられた供物を食い荒らすネズミから神社を守ってきた猫の一族が、阿於目猫祖神となったという縁起はあるようだけれど、猫恵比寿も猫大黒も、この猫天神も近年になって作られたもののようだ。以前にどんな祀られ方をしていたのかは定かではない。数年前に町おこしのイベントで、猫祭りと称して付近一帯を萩原朔太郎の小説「猫街」にちなんで猫だらけにしたところ、大盛況だったそうなので、その頃に再建したものかもしれない。(街の至るところにその名残がある。)
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本殿は清げな神社でありました。ここも時間が遅かったせいか、社務所は固く閉まっており、御参りだけして退散。
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大黒様。
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恵比寿様。

e0023828_21142988.jpgこんなのぼりも林立していたので、観光的に力を入れている様子は伺えます。興味あるのは、本当にこの神社を守っていたのが青眼の白猫だったという伝説があるのかどうか、ということ。単なる「青梅」の語呂合わせだったらがっかりなんですが、もし本当に青眼(銀眼)の白猫だったら、聴覚弱かったんじゃないかな、そんなんで鼠からお供物守れたのかな、というところが気になるわけです。


e0023828_2120392.jpgどうやらこれが、神社で配布する招き猫であるらしい。通りの並びにあった信用金庫のショーウィンドウに飾られておいででした。なんで平安朝なのかな。住吉神社が平安時代に鎮座されたからだろうか…。


e0023828_21231916.jpgこれが御札らしい。なんだかこの御札はちょっと欲しい。今度、七 五 三の頃にでも来て見ようか。ちょうど 僕、3歳だし。

More: 住吉大社・住吉神社
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# by nekomanisto | 2005-08-30 21:25 | - 青梅 住吉神社

猫と浮世絵

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うるささう 月岡芳年 明治21年

原宿にある太田記念美術館に行って来ました。「浮世絵にみる愛されるペット」という企画展が開催されていたからで、これはきっと国芳の猫浮世絵なんかもあるに違いない、と思ったわけです。
浮世絵というと、江戸時代のもの、という感覚がぬぐいがたくあるのですが、実際には明治年間においてもかなり盛んだったようで、明治時代の作品も沢山ありました。
実際に、絶対数が一番多いのかどうかは判りませんが、展示されていた浮世絵 或いは肉筆画に描かれていた「ペット」の大半を占めていたのは猫で、わたしはその描かれている猫の毛色と尻尾にばかり目をやっておりました。
やっぱり、圧倒的に白黒ブチの猫が多い。尻尾も短くて巻いている イマドキにいうと、「かぎしっぽ」の猫が圧倒的に多いです。シマ猫は 1匹しか展示されておらず、まるでトラみたいな顔に描かれていて、(顔つきがコミカルで可愛かったですが)他の猫とは違いました。
浮世絵などの資料を散漫に見ていて、かーがシマシマと白斑の猫であるからか、自然とそういう猫を探しますが、そういう画にはあまり行き当たりません。近代以前の日本には、しまねこがいなかったのか??? と最初は早合点しそうになりましたが、どうもそういうことではなく、絵師たちの好みであるとか、当時の流行であるとかが大いに反映されているようです。そりゃそうですよね、猫のシマシマ柄って、いちばんありふれているはずですし、だからこそシマシマ猫というのは 画材としてあまり歓迎されなかったかもしれません。日本画としては、ごちゃごちゃしすぎだろうし…。
浮世絵に描かれたペット、ということで、さぞ歌川国芳の作品が多かろうと思ったのですが、実際にはさほどでもありませんでした。この美術館自体が、個人の収蔵作品を展示しているものなので、収蔵されていた方の好みによる淘汰も当然そこにはありますし。展示作品を拝見する限り、あまりケレン味のあるものは好まれなかったようですから、国芳はお好みではなかったとしても、「そうかもねー」という感じでした。
歌川国芳という人は、猫好きで知られた絵師だったようですが、遺された作品も、なかなか変わったものが多くて面白いです。猫を描いた戯画も数多いようですが、一番わたしが気に入っているのがこれです。中央にある「ニャロメ」のような猫又の絵。
これは当時ご禁制だった役者の似顔絵を落書きにみせかけて描いたもので現存するものは3種類あるようですが、そのうちの一枚にこのネコマタ君がいます。ちゃんとてぬぐい被っているし、尻尾も二股だし、これはなかなかに貴重な資料です。(by 助手)
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# by nekomanisto | 2005-08-14 22:38 | 付箋

仮説途中のメモがき

一般的に 猫が日本にやってきたのは仏教の伝来と共に、経典と抱き合わせで(?)ということになっているが、貝塚からの猫の骨の出土、それ以前に「ヤマネコ」の存在が日本(ツシマ・イリオモテジマなど南の島嶼部を除く)にはなかったこと から考えると縄文~弥生時代、大和朝廷建国以前にどこかからやってきていた可能性が否定できない と 考える。

しかし なんで南の島嶼部以北でヤマネコが絶滅したのだろう?
絶滅するにはそれなりの 生存できない理由があったと思うのだけれど。

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# by nekomanisto | 2005-08-11 13:39 | 仮説

山猫を飼いならす話

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Photo:動物の恋人  『オレも飼われていたかもね』 byアムールヤマネコ

中国での猫ルーツを調べていたら、やはりありました。
ヤマネコの仔を山から獲って来て、飼いならして鼠退治させていたという記述が。多分、飼いならされていたのはベンガルヤマネコ系のヤマネコたちだと思われます。
当然、あとからはインドからやってきたであろう、エジプト原産の「イエネコ」との混血もあったのではないかと。ヤマネコを飼いならすというのがいつごろからあったことなのか、今わかっている範囲では唐の時代までしか遡れませんが、おそらくもうすこし以前から行われていたことではなかったかと思います。最初は人の残飯を漁りにヒトザトに出てくるうち、馴れたものもあったかもしれませんし。

日本に、ベンガル系ヤマネコが殆どいなかった(絶滅済みだったはず)だというのですから、日本へ仏教伝来以前、貝塚のころにまで遡って猫が渡って来た可能性を考えつかないと、辻褄があわない。僕は仮説として、弥生の人々が僕らの先祖を(おそらくまだヤマネコ状態の)連れてきたのではないかと思っているのですがね。
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# by nekomanisto | 2005-08-08 17:41 | 伝承